保健師学校入学準備:たび猫の保健師学校の思い出

保健師学校入学準備

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涙と笑いに満ちた私の看護学校生活(詳細は看護師転職記)も終わり、看護師の資格を無事に手にした私は、2001年4月に念願の保健師学校に入学した。

 

私の学校は都内にあり、実家からは通えなかったので、私は春休みの間に、急遽アパート探しをした。そこで妹と一緒に住むことにしたのだ(妹は千葉県内の短大に合格した)。私は遅ればせながら、20代後半にして初めて実家を出たのである。

 

看護学校の半ばより、私は民間病院の奨学金を借りていた。そこの病院は奨学金を借りても、その借りた年月だけその病院で働けば、返済の義務がなくなるのだ。私はその病院の方針などが好きだったため、その病院で働くつもりで、そこの奨学金を借りた。

 

奨学金と元々の貯金のお陰で、私の財政はかなり潤っているはずだったが、冒頭にも書いた通り、私は奨学金を借りているからと大船に乗った気分になって、看護学校時代、奨学金の分を海外旅行のためにかなり使ってしまっていたのだ(結局奨学金を借りた病院には就職せず、返済することになりさらに痛い目に遭う私・・・)。

 

そのせいで、あと1年間の学費と、アパートの敷金・礼金を含め生活費をまかなうにはかなり心細かったので、国民金融公庫からお金を借りた。1年間は、授業がかなりぎっしりなので、バイトはしないで勉強に没頭するつもりだったのだ(結果的には看護師のアルバイトをしたが・・・)。

 

いくらお金を借りたからといっても、節約するにこしたことはない。妹と都内の不動産屋に行き、安いアパートを探した。

 

最初は23区内で探したが、どこも家賃が高かった。不動産屋のお兄さんのアドバイスに従い、千葉県の都内にほど近いとある市、そこから私が通う区は電車でとても近かったので、そこにすることにした。月4万4千円のアパートだった。

 

駅から15分くらい歩くけど、学校にもまあまあ近いし、それ以下のところが見つからなかったのでよしとした。アパートは6畳のワンルームで、薄くて頼りない玄関の扉を開けるとすぐに部屋。なんとも不安なくらいの造りだった。薄いドアだったので、部屋の声は外に筒抜け。新聞の勧誘などが来た時に、居留守を使うのもドキドキするくらいのものだった。

 

もちろんユニットバス。収納は全くない、といった狭いアパート。隣の声もよく聞こえた。二人で住むにはきつきつの部屋だったが、たった1年のことだ。我慢することにした。あまりの狭さに、テレビが置けず、1年間テレビのない生活も余儀なくされた。お陰でラジオをよく聞き、ラジオの懸賞によく当たったりしたので、恩恵もあったのだが。今思えば、1年と言えどもよく我慢したなーと思うような部屋だった。

 

こうして私の保健師学校の生活が始まった。私が行った学校は、看護専門学校で、看護学科と保健学科があった。その中の保健学科に私は入学した。保健学科は1クラスのみで、クラスの人数は約50人。入学してみると、クラスメートは本当に様々な経歴を持った人で溢れていたのであった。

 

まず、この学校の生徒の特色として、私のような遠回り組が多数を占めていた。きっと学費が破格の安さだったことも関係しているのだろう。看護学校の時は、私のような遠回り組は極少数派で、居心地の悪い思いもした。しかし、今度の学校は違ったのだ。年齢も様々だった。色々な職種を経験した人がおり、みな日本人だけど、“人種の坩堝”といった感じだったのだ。妹のように、看護師を経験したあと、やはり保健師の資格が欲しくなり、この学校に入学してきた人も多かった。

 

とにかく、看護学校にくらべ、色々なタイプの人がいるこの学校は、私にとって面白くないはずはなかった。とても刺激的で、学ぶことが多かった。同級生と話をしているだけでも、“この学校に来て良かった”と思える学校であった。

 

残念ながら、私の卒業したこの学校は今はもうない。世間は看護も大学化が著しく、私の系列の学校も看護大学を作ったので専門学校は廃校になってしまったのだ。この学校がまだ残っていたら、これから保健師になりたい人には、ぜひお薦めしたい学校であった。

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